2013年4月2日 火曜日
『櫻乃物語』という私の写真展が、“ペンタックスフォーラム”(新宿)で3月14日から25日にかけて開催された(現在は、「富士フォトギャラリー新潟」で開催中。詳細は“お知らせ”の中に)。今回の写真展は、“人と桜との関わり”という視点に重点を置いて構成したものだった。期間中にたくさんの方々に来ていただいたが、今でも耳元に張り付いているやりとりがふたつある。
ひとつは、以前に何度も私の写真教室に参加されていたAさん(女性)との会話である。
「先生、画面にこんなに人を入れて撮ってもいいんですね?」
「もちろんです。桜を主役にしたまま添景人物として入れてもいいし、人を主役にして桜を脇役にした撮り方だっていいんです。撮りたいように撮りましょう。どの作品をどう使うかは、後から考えることです」
「うわぁー、嬉しい! これで楽になりました。」
Aさんは、本当は人を入れた写真がずっと撮りたかったのだろう。だが、所属している写真クラブではそれが認められなかったのだろうか、それともAさんがそう思い込んでいたのだろうか。
もうひとつのやりとりは、初めてお会いする人達との会話であった。男性四人で来場された一行が、ひととおり作品を鑑賞し終えてから、会場にいた私に話しかけてきた。
「鈴木先生、桜は、支柱があっても撮っていいんですね?」
「もちろんです。そうでなかったら、支柱のある桜は一切撮れないじゃないですか。ある程度樹齢のいった桜はほとんど支柱があるじゃないですか」
「そうですか。うちの会の指導者から、支柱がある桜は撮ってはダメと言われているものですから…」
「人間だって、年を重ねれば杖をつくでしょ。杖をついているからその人を撮らないということはないでしょう。桜だって同じです」
「そうですね。これで気が楽になりました」
これらの二つの事例を通して、写真愛好家のたくさんの人が、「○○を撮ってはいけない」という呪縛に縛られていることをあらためて痛感した。でも、もう一度初心に戻ろうではないか。私たちは撮りたいものを、心を躍らせて撮り始めたのではなかったか。最初の頃のように、もっと自由自在に描こうではないか。もっと、のびのびと楽しもうではないか。