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    作品の行方、想いの行方

    更新:2012年11月11日

     私は、風景写真愛好家との付き合いが多い。だがそれらの方々は、ほとんどが高齢者だ。それゆえに、永遠にお別れする事態が毎年のように生じる。そして時折、関係が深かった方々のご遺族から、残された作品の扱いについて相談を受けることがある。それについて、今でも忘れがたいふたつの事例がある。

     ひとつは、私のフォト寺子屋「一の会」の会員だったKさんである。85歳で亡くなられたKさんは、寿命を全うして他界された。半世紀以上にわたって撮り続けてきた作品数は膨大であったが、残念ながら、私が提唱してきた「自分史」の原稿は残されていなかった。アメリカに在住されているお孫さん(彼女は、一年前の尾瀬撮影会にKさんのお供をされた)も駆けつけ、一週間がかりでポジ作品を整理された。

     その後に奥様から、本人が歓ぶことを何かしてあげたいがどうしたらよいか、という相談をもちかけられた。私は、ご家族のみなさんの寄せ書きや家族写真なども入れた作品集を作り、一周忌の引き出物にされてはどうか、と勧めた。奥様も賛同され、各自の原稿に取り組んでくれた。私は板見浩史さんの協力を得て、二人がかりで作品の選定と製作に取り組んだ。やがてできあがった作品集は、Kさんの一周忌法要の引き出物となった。身内からも参列者からも、故人を偲ぶ大切なものとして本当に歓ばれたようである。

     二つ目の事例は、二十年以上もお付き合いが続いたTさんの話である。過去に写真展を開催されたこともあるベテランのTさんは、新たなるテーマの集大成と発表に向けて熱心に取り組んでいた。だが、病魔によって志半ばでこの世を去ってしまった。奥様が遺品を紐解いていると、まとめられた作品と写真展を開催するための資金、そして私の手紙(次なる発表について作品選定をお願いしたいというTさんから依頼に対し、了解しましたという私の返事)がひとつの箱に大切に保管されて出てきたという。奥様から、追悼の写真展をやってあげたいが面倒を見て頂けないか、と相談された。私は、「喜んでお手伝いします。ただ、写真展もいいですが、故人を偲ぶ作品集を一周忌の引き出物にするのもいいですよ」と返事した。それでは検討しますということだったが、なかなか返事はこなかった。

     やがて一年ほど過ぎた頃に、その奥様から電話がかかってきた。消え入りそうな声で話された内容に、私は愕然とした。それは、息子さん夫妻(特にお嫁さんの意見で)から財産分与の裁判を起こされ、Tさんが残していた写真展資金も使えなくなってしまった、というのであった。私は慰める言葉もなく、もし事態が進展して何かお手伝いすることができたらいつでも申しつけて欲しい旨のことを話し、電話をきった。だが、その後の連絡は途絶えたままである。

     高齢者が取り組む風景写真においては、一般的な趣味の範疇を超え、生き甲斐として、命をかけて真剣に取り組む人がかなりいる。だが、他界された後の作品の行方とそれを天から見届ける本人の想いの行方は、さまざまである。

    生前に自ら葬儀の手配

    更新:2012年10月05日

     流通ジャーナリストの金子哲雄さんが41歳という若さで亡くなり、昨日からテレビでいろいろと話題になっている。私は彼のことはあまり知らなかったが、分かりやすく人なつこい語り口で人気が高かったらしい。

     十万人に一人という難病によって若くして他界されたことは、何とも気の毒である。だが、私がこのニュースに敏感に反応したのは、①自分の病気や残された時間のことを周囲に悟られることなく、直前まで一生懸命仕事をされていたこと、②自らの葬儀をすべて段取りして礼状まで作成していたこと、が伝えられたからであった。

     私もこれまで、「写真による自分史つづり」という活動を展開してきた。自分自身が確かにこの世に生きていた証と自分がどのような人間であったかを写真作品と文章でつづり、「自分史」として後生に残そうではないか。そして自分史は“一周忌の引き出物”という位置づけにして、原稿を作り上げて予算の裏付けをきちんとしておく、というのが写真愛好家への私の提案なのだ。

     若い金子さんが、悟りを開いたように取り乱すことなく、残された時間を必死で生き、すばらしい葬儀を自ら成し得たことに驚嘆させられる。誰にもできることではなく、心より敬意を表したい。合掌。

    ※“自分史つづり”の講演については、“お知らせ”をご覧下さい。

    ダリアの花

    更新:2012年09月29日

     生まれ故郷から持ち帰ったダリアの花を花瓶に活け、仏壇の脇にそっと置いたとき、写真の中の母がにこっと微笑んだように思えた。

    私の生まれ故郷は、福島県の塙町という田舎だ。地図的には、茨城県に近い中央通りの山村である。町は、15年ほど前からダリアの花による町おこしを始め、今では老人会から各家庭までダリアの花作りに熱心に取り組んでいる。毎年ダリアフォトコンテストも開催され、長年にわたって私も審査に関わってきた。

    メキシコが原産国であるダリアは、とても情熱的な花だ。原色の絵の具を塗りつけたような鮮やかな色彩で、大小様々な姿で太陽に向かって伸びている。見ているだけでも元気がもらえるようなチカラがある。

    町から講師を依頼されたダリアの写真教室が、9月28日に実施された。町外・県外の参加者が30名近く集まり、午前はセミナーで午後はダリア園での撮影会という濃密な時間が、静かな山の中で流れた。時折雨が降る天気ゆえに一般の観光客はほとんどおらず、花には美しい水滴がまとうという恵まれた撮影条件だった。写真教室が終わって誰もいなくなった後、暫し花を見つめていると、これまで一度も東京の自宅にダリアを飾っていないことに気がついた。花が大好きだった母が、少々おかんむりであるのは間違いないだろう。園を管理しているおじさんに頼み、私はダリアの花とともに帰路に着いた。

    曼珠沙華の旅

    更新:2012年09月25日

    「お昼、できましたょぉ。よかったら食べていって下さい。」
    彼岸花を撮影している私たちに、Fさんの奥さんからやさしい声がかけられた。「ありがとうございます。今、お伺いします。」と、少々戸惑いながら私は返事した。機材をしまい、私に同行している写真愛好家のKさんと一緒に、恐縮した面持ちで玄関に入った。すると、目の前のテーブルに、暖かい昼ご飯が用意されていた。
    ここは、熊本県の山の中。幽玄の風情漂う山間に、一件の古びた民家がぽつんとあった。今は千葉に住んでおられるFさんの実家だが、家を継いだお兄さんが亡くなられてしまったので、9月から10月初旬に掛けて戻ってくるという。その一番の目的は、“彼岸花”の手入れらしい。家の周囲には、自生の彼岸花がそこかしこに咲き乱れ、いわゆる彼岸花名所とはひと味もふた味も違った情感が漂っていた。それにしても、初めて訪れた私たちに昼ご飯を振る舞ってくれるとは、全国を旅する私でも意表を突かれるもてなしだ。その後もしばらく撮影を続け、やがて丁寧にお礼を申し上げて次の撮影地に車を走らせた。
    今回は、9月17日に東京を発ち、奈良、愛媛を周り、九州は大分・熊本・佐賀・福岡各地の彼岸花と棚田を満喫する撮影行であった。一週間の充実した撮影を終え、新門司発のフェリーの中で暗い海を見つめたとき、山口百恵の“まんじゅうしゃかぁぁ”という哀愁を帯びた歌声が聞こえてきた。

    ようやく、オープン!

    更新:2012年09月24日

    “自分のホームページを作らなくては、”と思い立ってから、すでに7年も過ぎてしまった。その間ネット上では、私のホーページはあるのかとか、写真家として早くホームページを作るべきだ、などという書き込みややりとりがあったらしい。

     それでも多忙な日々が続き(もちろん仕事の処理能力との兼ね合いだが)、作成に踏み切る決断ができないままで月日が流れていった。だが、私の場合は、いろいろなことが機が熟すように順番に決まり、道が開かれていくことが多い。今回も気がつけば、長年手をつけずにいたこの課題に一気に着手している自分がいた。それから一月半が経過した今、待望のホームページが公開される日を迎えることができた。

     今は、まるで写真展の開催に辿り着いたような心境になっている。限られた予算では限界があるものの、なかなかすてきな我が家ができたのではないかと思う。この“独り言”も頑張って四つも書いてしまったが、今後の更新が早くも心配だ。ともあれ、たくさんの方々に訪問していただければ、嬉しい。

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