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    ■写真のチカラ(2)

    更新:2015年08月29日

     

     7月に、山形県酒田市にある『土門拳記念館』を訪れた。実は、土門拳(敬称省略で恐縮)は私が敬愛する写真家である。これまで、写真雑誌のインタビューなどで「尊敬する写真家は誰か」という質問には、その名前を挙げてきた。私がアマチュア時代に、ふとしたことで一冊の写真集「筑豊のこどもたち」を手に入れたときから、敬愛の念は築かれた。涙を流しながらシャッターをきったという人間性と姿勢、そして必死に生きるこどもたちの作品のチカラに、私は大きな衝撃を覚えたのを今でもはっきりと覚えている。

     土門拳記念館では、「戦後70年特別企画・土門拳が視た昭和」の企画展が催されており、モノクロ写真が160点あまり展示されていた。「筑豊のこどもたち」や「ヒロシマ」の作品も含め、激動の昭和をとらえた数々の作品を見つめながら、久しぶりにいいしれぬ感動に酔いしれた。

     その数日後に、今度は東京で『林 忠彦 写真展:カストリ時代1946-1956 & AMERICA1955』(キヤノンギャラリー)を鑑賞できる機会に恵まれた。ご子息の林義勝さんは、私がとても親しくさせていただいている写真家である。戦後のアメリカの描写も新鮮だったが、何よりも林忠彦(これまた敬称省略で恐縮)の代表作である「カストリ時代」は、力強かった。戦後のカオスの中で躍動的に生きる日本人の姿に強く引き寄せられ、その時代のエネルギーの磁力に触れることができた。

     土門拳と林忠彦という二人の作品を続けて鑑賞したあとに、あらためて“写真のチカラ”を考えさせられた。

     今や撮影機材はデジタルカメラが主流となり、解像力などの進化は目を見張るものがある。毎年のようにカメラの画素数の競争が繰り広げられ、誰もが精緻な描写ができるようになった。また、画像処理ソフトも高度化し、誰もがコンピュータグラフィックデザイナーになりつつあるようだ。しかし、である。いろいろなフォトコンテストで審査をしていても、心に響く力作が前よりも増えたという実感は、ない。

    一方、土門拳・林忠彦の二人のスナップ作品は、35ミリ一眼レフカメラと旧フィルムで撮影されたものである。はっきり言って、画質などは現在のデジタル作品に比べてかなり劣っている。けれども、迫ってくる作品のチカラは、圧倒的に凄い。

     作品のチカラは、何か。私たちはその根本なるものをもう一度考え、再認識すべき時にさしかかっているように思える。

    ■写真のチカラ(1)

    更新:2015年08月19日

     この一年、写真のチカラについて見解を求められることがけっこうあった。「いい写真とは何か」「審査における選考基準はどういうものか」「優れた作品の条件とは何か」など、ニュアンスに差はあるが、写真のチカラについて問われるものであった。記事となって掲載されたり、セミナーで話したりしてきたが、このブログでも少しばかりつぶやいておきたいと思う。

     ひとことでいうと、「写真=作品を鑑賞する(審査する)人をどれほど感動させるチカラがあるか」が、共通したモノサシとなろう。ただ、チカラの具体的な構成要素は、写真のジャンルによって部分的に異なってくる。ここでは、いわゆる“ネイチャー部門”について述べてみたい。

     私は、構成要素の関係性を次のように考えている。

    「写真(作品)のチカラ」=(技のチカラ+被写体のチカラ+創造性のチカラ)×魂のチカラ

     第一の要素は「技(撮影・仕上げ)のチカラ」であり、その内訳は、画面構成・フレーミング、露出、被写界深度、シャッター速度、カメラ位置、画質(ハレーションの問題なども含む)、色調・階調・コントラスト、などとなろう。

     第二の要素は「被写体のチカラ」であり、内訳としては被写体の魅力、シャッターチャンスの難易度、被写体の新鮮度、などがあげられる。“被写体の魅力”とは、色彩や造形の美しさ、迫力やスケール感、そして希少性などである。素材としての“シャッターチャンスの難易度”とは、どれほどの確率で出会うことができるかという“運”と“努力”の尺度である。

     そして“被写体の新鮮度”とは、被写体としての目新しさはどうかという尺度である。たとえ被写体としての魅力があり、シャッターチャンスの難易度が高いものであっても、既に何度も発表されている場合は、被写体の新鮮度は低くなろう。

     第三の要素は「創造性のチカラ」であり、具体的には、着眼点や発想の独創性、作品の物語性、などである。“着眼点や発想の独創性”とは、多くの人を「おっ」と思わせる斬新な視点であり、その人の感性や個性に基づくものであったり、熱心な研究の成果であったりする。また、“作品の物語性”とは、単に美しいとか迫力があるなどだけではなく、歴史や伝統、生命、環境などのひと味違う物語を内包することによるチカラである。

     そして第四の要素は、「魂のチカラ」と考えている。シャッターをきる本人が、描こうとしている被写体に対してどれほど感動し、どれほど心を込めてシャッターをっているか、という視点である。端的にいえば、どれほど作品に魂を込めているか、である。例えば、「ありがとう」という感謝のことばの重みは、声としての明瞭さや大きさなどではなく、心の中でどれほど感謝しているかによって相手に伝わる重みが変わるのと同様である。

     以上の四つの要素が融合し、個々の写真=作品のチカラとなって第三者に訴えるというのが、私の考えである。

     

     

    のどかな温泉

    更新:2014年08月10日

     北海道美瑛町の“青い池”の撮影を終え、カーナビを見つめながら「さてどうするか」と、思案した。朝の九時半を過ぎたところだが、苫小牧発のフェリーは夕方の6時45分で、時間はたっぷりある。広島県のホタル撮影から始まった長旅は、今日が撮影最終日であった。朝の三時過ぎから富良野町で撮影を開始しており、達成感も生まれていた。どこかでゆっくり温泉に入りたいと思ったところ、4キロほどのところに白金温泉があったのを思い出した。

     そこにはいくつかのホテルが道沿いに並んでおり、とある瀟洒なホテルの駐車場に車を止めた。入り口には、「日帰り入浴、大人1000円」という看板があった。少々微妙な料金だが、良しとしてフロントに向かう。「入浴をお願いします」と、私。「すみませんがただいま清掃に入りまして、ご入浴は11時半からになります」と、フロントの人。「そうですか、わかりました」と、私。残念、ついていない。外に出てあたりを眺めると、近くに観光協会の建物があるのが目に留まった。中に入ると、窓口に人影はない。しばらくして現れたご老人に、今の時間に入れる温泉を尋ねると、「すぐこの上に健康温泉センターがあるよ。ただし、シャンプー・石けんはないよ」と、教えられる。

     そこは、ひなびた施設だった。建物の軒下に横一列に6~7台可能な駐車場があり、車が二台駐車していた。先ほどのホテルとは違い、所々に草が茂っている。駐車場脇から建物の二階に続く石段を昇ると、どうやら玄関らしい。だが、自動扉ではない。押しても引いても、開かない。やがて左右に開くようにすると、ようやく動いた。一歩中に入ると、ガラス越しのすぐ向こう側で三人(爺さん二人、婆さん一人)が戸惑っていた私を見てケラケラと笑っているのに気づいた。“おいおい、笑っていないで教えなきゃ”と心の中でつぶやく。だが不快な気持ちはなく、私の顔もにやっと崩れている。

     受付には、これまた爺さんがいた。「おいくらですか」と、私。「300円だよ」と爺さん。むむっ、安い。「あんた初めてかね」「そうです」「じゃあ、ここに名前と住所、あっ、住所は都道府県でいいから書いてや」。何と、風呂に入るのに名前と都道府県名を書かされるとは、もちろん初めての体験だ。「風呂はこの階段(フロアー中央にある)の下、休憩所はこの階の左奥」と、指を指した。言い終わるやいなや「便所はこの奥」と、後ろから先ほど笑っていた婆さんが階段の先を指した。「この便所がわからんのだがなぁ」と、連れの爺さん。「便所のトビラを開けておくとトイレのマークが見えてわかるんだがなぁ」と、受付の爺さん。何という訳のわからない会話だ。「わかりました」と私は返事をして、すぐに階下の風呂に向かう。

     風呂は、階段を下りた廊下の十メートル先の右側にあった。入り口のドアを開けると、すぐに六畳ほどの狭い脱衣所があった。もちろん、ロッカーなどはなく、10数個の脱衣篭が棚に並んでいる。服を脱いでトビラを開けると、浴場はこれまた狭く、全体で八畳ほどであろうか。入り口のすぐ左手に洗い場が窮屈そうに三人分あるが、手前の洗い場に座ると出入りする人と触れ合うほどの位置関係にある。湯船には、三歩で到達できる。その風呂場には、洗い場の真ん中で体を洗っている細身の爺さんと、湯船の正面奥で湯にはつからずにあぐらをかいて壁に寄り掛かっている爺さんがいた。小太りで、なおかつ強面で,じっとこちらを見ている。静かな沈黙が狭い風呂場を支配している。

     湯船脇の3番目の洗い場で、私は体を洗い始めた。体が触れ合いそうになる隣の爺さんにシャワーがかからないように、そして風呂桶の流し湯が爺さんの足にかからないように気を遣う。風呂桶は、ケロリンとかかれた黄色いセルロイドのものだ。そういえば、これまでにも古い温泉では何度か同じケロリンの風呂桶を使った記憶が蘇った。どうしてなのかなぁ、などとぼんやりと、しかしそれ以上は深く考えることなく体を洗い終える。やがて湯に入ると、熱い!おそらく43°だろう。ぬるま湯が好きな私には、けっこう熱い。だが、上から押さえつけられるように、首まで体が沈む。2メートルほど前であぐらをかいている強面の爺さんの視線を感じながら、とろっとした泉質を体感する。見た目は飯豊温泉の鉄分の入った赤褐色を薄めたような色合いだが、肌に良さそうなぬめりを感じる。

     2分ほどで熱さに耐えるのがしんどくなった私は、声を出さずに1、2、3と数え始め、100で湯船から這い上がった。“ちょっと待てよ、子どものような今の仕草は何だろう”と、自分自身不思議になった。そのとき、ずっと洗い続けていた細身の爺さんがようやく洗い終わったと思いきや、私の目の前で「じゃあ、先にでるわ」と背を向けたままで急に大きな声を出した。私は驚いた。まさか私に話しているのか。そのとき、「そうか、早いなっ」と、私の後ろから強面の爺さんが返事した。なんだ、二人は知り合いだったのか。

     脱衣所に入って振り返ると、いつの間にかあぐらをかいていた爺さんが狭い洗い場で大の字に寝転んでいるのが、ドアのガラス越しに見えた。股ぐらには薄いタオルが無造作に掛けられている。ひょっとするとこの爺さんは、大の字になりたくてずっと待っていたんじゃないのか。そう思ったとき、私は自分のおしりを両手で何故か“ぱんぱん”と二度叩いてしまった。むむっ、何だこれは、まるで力士が仕切りの時にする仕草ではないか。こんなことをするのは、生まれて初めてであり、自分でも訳がわからない。不思議な何かがこの浴場にいて、見えないチカラで私を開放的にしているかのようだ。

     ドライヤーもないので、着衣は早い。肝心の温泉の泉質を確認しようとしたが、表示板が無い。それから階段を登り、受付の時に教えられた休憩室に向かった。パソコンを持ってきたので、メールのチェックなどをする予定でいたのだ。ドアは開いており、中からお婆さんたちの元気のいい話し声が聞こえてきた。中に入ると、そこは30畳ほどの大広間であった。浴場は小さいのに、休憩所は不釣り合いに広いではないか。長テーブルが8卓ほど配置されてあったが、テーブルに体を寄せている人はいない。しかし、会話は威勢良く続いている。よく見ると、四人のお婆さんがあちらこちらのテーブルの脇で寝ており、寝ながら会話をしているのだった。不思議な光景を目の当たりにした私は、急にこの温泉での出来事をブログに書かざるを得ない使命感を覚えた。いつも数ヶ月も前のことを書いている私がリアルタイムで書くとは、本当におかしい。だが、書かざるを得ない使命感を覚えていた。

     書き始めてからまもなくすると、5人目のお婆さんが風呂からあがってきた。どうやら自分のテーブルが決まっているらしく、そのお婆さんは私の斜め右後ろのテーブルに着くやいなや、「あら、誰だろ、ありがと」と言った。横目で覗くと、テーブルにはヤクルトが二本置いてあった。だが、他のお婆さんたちは、誰も返事しない。“あんたたちの誰かでしょ、誰も返事はしないんですか”と私はこころでつぶやく。そのうちに5人目のお婆さんは、丸いマルボーロのようなお菓子を配り始めた。「豆が入ってるんだわ。ヨーグルト味なんだわ」と言いながら配り、他のお婆さんたちは「ありがとう」といいながら受け取っていた。私は黙々とこのブログを書き続けていたが、そのお婆さんは私の所にも立ち寄り、「よかったらこれ食べな」と丸い菓子を5粒ほど差し出した。「ありがとうございます。いただきます」といって、私は受け取った。一粒口に入れると、甘酸っぱいヨーグルト味が口いっぱいに広がった。中には、柔らかな大豆が入っていた。不思議な味だ。こんな駄菓子は、食べたことがない。そうしているとお菓子配りのお婆さんは、「あら、余ったわ」と言って2週目の配布に入った。私の所にも来て、「はい、お兄さんにも」と2粒を私の手の中に置いた。私はまた「ありがとうございます」とお礼を述べた。完全に子どもになっている気分だ。それにしても、のどかで不思議な温泉だ。

     婆さんたちの会話が飛び交う。「そういえばA子さんはどうしているかねぇ」「あん人には私は言いたいことがあるね」「でもあんたが前にぴしゃりといったから、来なくなったねぇ」「そりゃそうよ、あんな勝手なことばっかさせらんねぇよ」などと、私にはとんとわからないやりとりが延々と続く。私はブログを黙々と書き続ける。やがて婆さんたちは、「そろそろ行くべ」と誰となく言うとぞろぞろと、出て行った。迎えが来るのか、バスで帰るのか。

     それから一人になった私は、しばらくすると急に温泉の泉質が気になって受付の爺さんのところに行く。「すみません」と声をかけるが出てこない。ドアを開けて中に入り、もう一度大きな声で「すみません」と発する。すると奥から「はい、はい」と姿を現した。「この温泉の泉質はどこに書いてありますか」と、私。「脱衣所にないかね」「脱衣所にはありませんでした」「そうだ、風呂場の廊下にあるよ」「そうですか、見てきます」「ここの温泉は源泉そのもんだからね。いいよぉ」

     階段を下りて廊下を注意深く見ると、女湯と男湯の間の壁面に、それも私の頭上の高いところに額に入った温泉成分表なるものが飾ってあった。字も小さく、見えにくい。眼鏡をかけてつま先立ちし、壁に手をかけて精神を集中させる。じっと見つめていると、次第に判読が可能になった。「ナトリウム・マグネシウム・カルシウム・硫黄塩・塩化物質泉」と記載してあった。すごい名前の泉質だ。それを確認したとたん、なんだか急に疲れがとれてきたような気がした。 

     東京を離れてから今日で十日目、広島・岡山、礼文島、そして富良野・美瑛の撮影が終わり、今はほっとしているような、ハイテンションのような気分である。そのようなわけで、このようなつれづれなるブログと相成った。

    説得力

    更新:2014年08月07日

      私は、くたくたに疲れていた。今年の三月末のことであった。九州での桜撮影が終わってカーフェリーで四国に渡ろうとしている矢先に、愛車が壊れてしまった。それでやむなく撮影を中断し、飛行機で東京に戻ってきたのである。私は羽田から品川に出て、山手線に乗り換えようとしていた。

     時間は夕方の5時前頃であっただろうか。到着した電車から数人が出てくると、向かいの右側シートの状況が視界に入ってきた。左端から二十歳前後の若い女性が二人並んで座っていて、その隣が二人分空いていた。さらにその右側にはスーツ姿の神経質そうな四十代の男性が正面を見据えていた記憶がある。私は、茶髪のショートカットをした若い女性の隣に腰を下ろした。彼女は手鏡を覗き込みながら、ぱたぱたとせわしそうにパフで顔をたたいており、化粧に余念がない。あまり感心できる所作ではないがこれまでにも電車内で何度も見てきており、今では見慣れた光景のひとつになっていた。ただ、すぐ隣でずっと小刻みの振動を受け続けていると、少々不快感が湧き上がってくるのも事実であった。

      二駅ほど過ぎたところで、小柄な老婦人がその女性の前に立った。すでに車内は満席であり、私は薄目を開けた状態でぼうっとしていた。隣では、相変わらず入念な化粧作業が続けられていた。「ねぇ、あなた」、小声ながらも落ち着いた、それでいて芯のある声が私の右上の頭上から響いた。私は、思わずびくっとした。声をかけられたのは隣の若い女性であり、小刻みに動き続けてきた彼女の手がぴたっと止まった。私は顔を向けることなく、老婦人と若い女性の動きに全神経を集中させた。老婦人は、眼鏡をかけて清楚で品のある雰囲気を漂わせていた。若い女性は、手を止めたと言うよりも、声をかけられたことに驚いて手が止まったというのが真実だろう。そして一瞬のうちに、彼女の視線は老婦人の視線と交わったと思われる。その瞬間に老婦人は、「お化粧はこんな所でするものじゃないわよ」と、静かに優しい口調で語りかけたのだった。気品よりも、優しさがたくさん宿っている響きだった。

      私は身動きせずに、半開きの視界の右隅で繰り広げられている様子を固唾を呑んで見守った。「うるせぇ、ババァ」という罵声が若い女性の口から出たとしても、不思議ではなかった。何しろ今時、公の面前で化粧を注意することなどはおよそ考えられないお節介なのだから。だが若い女性は、両手を下ろし、視線も落とし、じっと老婦人の言葉に耳を傾けているのだった。「お家で支度する時間がなかったのね」、とさらにやさしい口調で語りかけた。そのやさしい音色に、私は思わず感動してしまった。若い女性は、化粧道具をバッグの中にしまい込み、それからは、これまでのせわしない動きがウソのようにじっとしたままとなった。いくつかの駅が過ぎ、やがてその老婦人は降りていった。さらに数駅が過ぎて、若い女性も降りた。

      その後の私は、眠気や疲れなどを忘れて覚醒していた。そして、目撃したばかりのドラマをじっくりと考えた。強く実感したのは、老婦人の『説得力』である。なぜ若い女性は、反発することなく聞き入れたのか。おそらく、老婦人のマナーについての揺るぎない思いと若き女性に対するそれ以上の優しい気持ちを感じ取り、その説得力に素直に反応したのであろう。久しぶりに本物の説得力いうものを目の当たりにした、感動的な出来事だった。

    “親切”は戻ってくる

    更新:2014年05月31日

    ※ この話は、前話の九州撮影会の二日後の出来事である。あまりにも長い間このブログをサボってしまったが、記憶をたどりながら忘れがたい話を書かせていただいた。

     

     私を含めて三人は、次第に深なってくる川の中を注意深く進んでいった。私以外の二人とは、前話で撮影会を手伝ってくれたK(男性)さんとSさん(女性)である。

     先日の勉強会の時、私が由布川峡谷の“チェックストーン”の撮影に久しぶりに行きたいと言い出したところ、KさんとSさんが同行することになったのであった。チェックストーンとは、由布川峡谷の上流にある名所だ。下にいるのが怖いほどの大岩が、この写真のとおり崖の最上部で今にも落ちそうに挟まれているのである。下流のポイントから渓流を遡って行くのだが、問題がひとつあった。それは、今年は水嵩(みずかさ)が増していて、ウエダーでは危険というKさんの報告であった。ウエダーとは、釣り人がよく使うもので腰や胸まである長靴のことである。水嵩が深いところで着用するものだが、いったん水が入ってしまうと溺れてしまう危険性がある。そこで私たちは、ずぶ濡れを覚悟して渓流を進むことにした。

     万が一カメラザックに水が入り込む事態を想定し、レンズやカメラをジップロックのビニール袋に入れて収納した。そしてKさんは、小さなゴムボートやロープまでも用意してきた。それは、“チェックストーン”に近づいたところの深瀬で役に立った。そこは、私の首下までの水深になっていた。まずKさんがゴムボートにザックを乗せて上流の浅瀬まで進んでいった。その地点の岩にロープの片方を結びつけてもう片方の流し、私が受け止めた。Kさんは戻ってくると、ゴムボートにSさんのザックを載せて運び、Sさんは張られたロープにつかまりながら泳いで渡ることになった。Kさんが再度戻ってきて私が持っていたロープを受け取り、今度は私がゴムボートにザックを乗せて渡った。

     そうしているうちに、後から来た若い男女のグループ(大学の登山愛好会のような印象であった)が追いついてきた。このときKさんは、彼らにこのロープをたどって渡るように勧めたのであった。彼らもまさかこのような水の深さになっているとは思ってもいなかったようで、この親切な行為に何度もお礼を述べたのだった。私はこのほほえましい様子を見つめながら、あたたかい気持ちに浸った。同時に、間近に迫っている大切な撮影を前にしてどれほどの人がこのような心の余裕と親切心を持つことができるだろうか、とふと考えた。

     まもなく私たちは、“チェックストーン”の地点に到達した。掲載した写真のように、大岩が今にも落ちそうなスリリング状況に光芒が射し込み、感動的なシャッターチャンスを存分に堪能したのであった。撮影を終えて渓流を下っていると、先ほどの若者たちがいた。どうやら私たちを待っているようである。その中のひとりの女性が、「さきほどはありがとうございました。ところで、この車の鍵はみなさん方のものでしょうか」と声をかけてきた。顔を近づけて確認したKさんが、「あっ、私のだ!」と驚きの声を上げた。私とSさんも思わず、「えぇ!」と声を出してしまった。若者たちは、笑顔で「お役に立てて良かったです」と述べて帰って行った。

     Kさんは合い鍵を持っていなかったようで、「いやぁ、帰れなくなるところでした」とつぶやいた。実は、私たちや若者たちの他にも二~三の本格的な沢登りのパーティがあった。若者たちも、起点となる駐車場でそのことは認識していたはずである。つまり、誰が落としたか分からない状況の中でわざわざ私たちを待っていてくれたのである。このような場合、拾った鍵を拾った場所の目立つところに置いておく、というのが一般的な作法であろうか(もちろん、それを見過ごしてしまう可能性は十分にあるが)。それにもかかわらず、“もしやあの人たちの鍵かもしれない”と考えて私たちを待ち受けてくれたのは、Kさんの親切な行為があったからこそであろう。“親切は戻ってくる”という言葉が、心の中に響いた。

    深い友情

    更新:2013年10月30日

     
     

    「どうも、ご心配をおかけしました」と、Mさんが少々バツの悪そうな表情で、しかしさわやかな微笑みを交えながら、私に話しかけてきた。
     この話は、八月上旬に私が指導した九州撮影会での出来事である。由布川峡谷の撮影に始まって、鍋が滝・龍門の滝、菊池渓谷などを巡る二泊三日の撮影会であった。二十名近い参加者のほとんどは関東近辺からの参加であり、羽田から大分まで飛行機で移動し、バスに乗り換えて撮影会はスタートした。最初の撮影地は、苔むした断崖絶壁が人気の由布川峡谷だった。渓流での撮影は比較的に涼しいとはいえ、汗が流れるほど気温は高い。今年は猛暑で、毎日のように熱中症の事件が報道されていた。
     参加者の中に、仲の良さそうな二人のご婦人がいた。私にフレーミングの意見を求めたりしながら、心から楽しそうにシャッターをきっていた。やがて二時間ほどの撮影を終え、温泉宿に向かうことになった。だが途中のトイレ休憩のところで、先ほどの二人連れのひとりMさんが体調不良を訴えた。しばらく休んだが回復には至らず、連れの友達が付き添ってもう少し休んでからタクシーで追いかけることになった。しかし最終的には救急車を呼んで病院に搬送され、入院することになったということが、夕食時に添乗員から知らされた。熱中症だという。
     長い写真家人生で、撮影会参加者が入院を余儀なくされたことは初めてのことであり、私の心は痛んだ。だが幸いにも症状は軽く、翌日の夕方には退院できることになった。二日目の撮影が終わって宿に到着すると、その二人が玄関で待ち受けておられたのだった。

     私は退院できたMさんの手を握り、「たいへんだったですねぇ。でも、大事に至らず、本当に良かったです」と声を掛けた。そして続いて、「明日はどうされますか」と尋ねた。明日の早朝は、参加者が大きな期待を寄せている“菊池渓谷の光芒”を狙うことになっていたのである。すると、「私は無理をせずにゆっくり休み、帰りの熊本空港で合流させていただきます」という返事が返ってきた。「そうですか」と、私は納得して応えた。それから、あらためて相方のTさんに「ご苦労様でした。あなたはもう安心して、明日からの撮影に参加されますね」と声をかけた。すると、「いえ、彼女を一人にはできませんので、私も熊本空港で合流させていただきます」というのであった。予想外の返事に、私は驚いた。
     今回の参加費用は十万円を超えるもので、決して安くはない。だが、撮影できたのは初日のたった二時間だけである。その後は、三十時間ほどずっと友人に付き添い続けており、そのことだけでもすばらしい友情だと誰もが賞賛するだろう。それなのに、退院して安心できる状況になっても、自分だけ撮影に参加したのでは友人に申し訳ないという。
    Tさんは、続けて口を開いた。
    「今回の撮影会参加者募集で、撮影地を紹介する先生の作品が三点ありましたよね。その中の由布川峡谷の写真に魅せられて私たち二人は参加したんです。その写真が撮れただけで、私たちは十分なんですよ」
    そのことばを聞いて、私はもうそれ以上何も言うことができなくなった。

    最終日の早朝撮影は、菊池渓谷で見事な光芒に遭遇することができた。参加者は感動に包まれ、歓声を上げてシャッターをきっていた。やがて撮影会が終了し、参加者とお別れをした。その後、ホテルの私の部屋に、今回の撮影会を手伝ってくれた写真愛好家が四人ほど集まった。お手伝いのお礼に、私がそれぞれが持ち寄った作品を講評するという勉強会であった。

     私は冒頭に、今回の事の顛末を報告した。それを聞き終わった四人は、口々に、“私がTさんの立場だったら、間違いなく撮影会に復帰させてもらいますねぇ”と心情を吐露するのだった。そして、誰かが“それほど深い友情って、本当にあるんですね”とため息混じりにこぼした。そのことばに、私も含めて全員が頷いたのだった。

    世にも不思議な物語

    更新:2013年10月14日

     

     「ただいまぁ」といいながら、彼はニコニコしながら戻ってきた。そして驚いたことに、何と「ノコギリクワガタ」を手にしているではないか。
     彼とは、写真家・森脇章彦さんである。森脇さんとの出会いは、今から四年ほど前に遡る。私の事務所のモニターを最適なものにグレードアップするというある写真雑誌の企画があり、その指南役として登場したのが森脇さんであった。それ以来、公私ともに深いお付き合いをさせていただいている。
     彼は、すごい。デジタルカメラの研究に日本でいち早く本格的に取り組み、今ではデジタルカメラやモニターなどの基本設計にも関わっている。パソコンの造詣も、たいへんに深い。また、記憶にあるマーガリンの箱の向日葵の写真が、彼の作品であったことも驚きだった。だがそれ以上に、アフリカの秘境の地で現地人にとらえられ、危うく殺されそうになったところを栄養ドリンク一本で切り抜けたというエピソードなどを聞かされると、本当にすごいなぁと私は感嘆する。
     私の事務所のパソコンは、デスクトップ型が二台、ノートブック型が一台という体制だが、その重要なメンテナンスや更新は、彼が担ってくれている。今回は、OSがWindowsXPという古くなったサブのデスクトップパソコンを、新しいものに切り替えるという作業であった。市販されているパソコンを購入し、その組み込まれているOSを変え((Windows8からWindows7に)、基本ソフトを動かすドライブをSSDに変え、その他諸々に手を加えて、使い勝手と性能を格段に高めてくれた。パソコンにさほど詳しくない私には到底できないことを、彼はいとも簡単に成し遂げてしまう。
     今回(7月上旬)も泊まり込みによる作業になったが、夜の帳が降りた頃に、ある部品がひとつ必要になった。彼は、自分のアシスタントの一人に連絡を入れ、今から購入して届けるようにとの指示をした。その後に彼は、“一服してきます”と言って、外に出て行った。それから十五分ほど経過した頃に、冒頭の“ただいまぁ”となったのである。

    「そのクワガタ、どうしたの?」
    「いや、この団地の中で採ってきました」
    「えっ? 偶然に見つけたの?」
    「いえ、私の感覚で、この団地の木にクワガタがいると思ったので。いや、さきほど私がアシスタントに買い物を頼んだでしょ。実は、彼の小さいお嬢さんが明日誕生日だと言うんですよ。それで私も何か喜んでもらえるプレゼントをしたいと考えたら、クワガタがいいなと思いついたんです」

     あらためて申し上げるが、ここは山の中ではない。東京都東村山市であって、駅から徒歩十分の市街地である。この地に十年も住んでいる私が、未だに見たこともないノコギリクワガタである。それが居ると確信し、たった十五分で捕獲してくるという世にも不思議な物語。そして、アシスタントのお嬢さんへのすてきなプレゼントを贈りたいという、彼の優しい心遣い。いやぁ、今回もまた、私は森脇章彦さんに驚かされた。

    ※ そのお嬢さんはノコギリクワガタのプレゼントをたいそう喜び、“クワノスケ”と言う名前を付けて、いまでも大切に育てているという(このつぶやきを書いている10月13日現在)。

    “2013櫻旅” -その②

    更新:2013年08月13日

     裏磐梯(福島県)のペンション・サッチモで夕食を終える頃、季節外れの雪はいよいよ本降りとなってきた。今日は4月20日、福島市や郡山市の満開の櫻を満喫してきたところである。暗闇を背景に、窓際を幻想的に流れる雪を見つめていると、私の胸のざわつきはいよいよ大きくなっていった。そういえば、9年前の4月末の時も、まさに同じ光景であった。そのときに撮影した猪苗代町での櫻と降雪の作品が、写真集『櫻乃聲』の大切な作品として収められている。今回もまた、貴重なシャッターチャンスを迎えようとしているのではないか、その期待が次第に高まっていった。
    翌朝、夜明け前に起きると、雪はまだ降り続いていた。驚くことに、すでに15㎝以上も積もっているではないか。私の心臓は、一瞬にして激しい鼓動へ転換した。愛車の雪を払い、急いでエンジンをかける。同時に、頭の中ではどこの櫻に向かうべきかを滅多にない思考のスピードで検討し始めた。猪苗代や喜多方、福島などの桜も脳裏をよぎったが、最終的に三春町と郡山市に行くことを決めた。これほどの大雪では風景全体が雪景色と化し、桜の光景とは思えない映像になってしまう。あくまでも櫻満開の季節感と貴重なシャッターチャンスであることを訴えるには、櫻の色がピンクであることが望ましい。そう分析し、紅枝垂れ系の櫻が何本もある地域を選んだのだった。
    幸いにも、愛車はスタッドレスタイヤを装着していた(いざというときに備え、毎年、櫻旅が終了するまでは冬タイヤにしている)。すでに世の中は、大混乱に陥っていた。カーナビの情報では、東北自動車道の一部が事故のために通行止めとなっていた。二時間ほどで三春町に入ると、最初に“滝桜”に向かった。日本一の人気を誇る滝桜は、吹雪の中で淡い桃色を雪に滲ませながら幻想的に佇んでいた。この三春町でも雪は既に10㎝以上も積もっていたが、5~6人が傘を差しながら櫻を眺めていた。まだ朝の8時前だが、通常ならばすでにたくさんの人が花見をしているところだ。私はフィルムカメラとデジタルカメラの両方で、何かにとりつかれたようにシャッターをきり続けた。あきらかに通常のスピードではなく、ギヤが違う。わずか10分ほどで撮影を終えると、次は近くの“紅枝垂れ地蔵桜”(郡山市)に向かった。
    降雪は激しく、本格的な吹雪である。濃いピンク色の花びらとの饗宴に、私は益々酔いしれた。ここでは、一時間以上もかけて心ゆくまで描き続けた。やがて合流した地元の写真愛好家Kさんの話では、自宅からここまで来る間に何台もの車が事故を引き起こしていたという。タイヤの問題だけではなく、心の動揺も大きく影響しているのではないか。かくいう私も、裏磐梯を出発した直後に、スリップして雪に覆われた土手にぶつかるというアクシデントに見舞われていた。幸いにも愛車には傷ひとつ着かなかったが、そのことでここまで慎重に運転して来れたように思う。
    “紅枝垂れ地蔵桜”の後は、やはりピンクの花を纏った“忠七桜”(郡山市)を訪れた。雪はいつのまにか止んでおり、音も風もない静かな銀世界の中で、桜は妖艶なる雪化粧の姿を披露していた。これも、感無量であった。ひと枝の部分を描いた作品が、「作品館」の「桜-Ⅱ」に展示してある“雪衣”である。
    この後に、裏磐梯から駆けつけてきたペンション・サッチモの染谷夫妻と合流し、“五斗蒔田の桜”(郡山市)へと駆けつけた。この桜は昨日も撮影していたのだが、一日違いで全く別世界の桜を描き続けていることに、不思議な感覚を覚えた。“昨日は桜の下に子供を抱いた若いお父さんが居たなぁ”などと想いながら、シャッターをきり続けるのだった。
    時は既に、午後二時に迫っていた。ここでの撮影で区切りを付け、私は東京に戻ることにした。何しろ、明日は某写真雑誌の月例フォトコンテストの審査日なのだ。降雪が一日ずれていたら、この出会いは無かった。五カ所の桜を描くことができたことに、私は感無量であった。遅いお昼を染谷夫妻と食べながら、「鈴木さん、裏磐梯では30㎝近い積雪になっているよ。30年近く居るけれど、こんな事は初めてだよ」と聞かされた。“私は、三十年に一度の光景に遭遇できたのではないか”と奇跡的な出会いの大きさをしみじみかみしめながら、今回もまた櫻の神様に導かれたのだと、深く感謝した。

    2013櫻旅”-その①

    更新:2013年08月12日

     「もしよろしかったら、オクチョウジザクラにご案内しますよ」という思いがけない言葉に、私のテンションは一気に高まった。「本当ですか。是非、お願いします」と、こみ上げる嬉しさを噛みしめながら返事をした。
     毎年続けている私の櫻旅は、一ヶ月から1ヶ月半に及ぶ。それは、私にとって一年でもっともしあわせな時間であり、大切な充電期間でもある。細かなスケジュールは定めずに出発するのだが、“今年はこの桜を撮りたいなぁ”という願いが、事前にいくつか生まれるのだった。そして今年の願いのひとつに、“チョウジザクラ”があった。
     ソメイヨシノに代表されるおおよそ600種の園芸種に対し、古来より日本に存在する自生種はわずか10種にすぎない。その貴重な桜のひとつが“チョウジザクラ”なのである。この桜は、「花の部分を近くで横から見ると“丁字”のように見える」という特徴が名前の由来になっている。だが、昔から鑑賞価値が低いとされてきたこともあって情報が少なく、なかなか満足できる個体に出会うことがなかった。今年は、長野県でその念願が叶うことを期待していた。安曇野に住み、山岳ガイドをしている友人が、以前からチョウジザクラの群生地を案内してくれる、と言ってくれていたからであった。だが実際には、樹齢の若い十本ほどの木立が少しの花をまとっている状況であった。私はオクチョウジザクラに出会えただけで満足し、櫻旅を続けたのであった。
     長野県から福島県、そして山形県へと櫻行脚を続けていったが、山形県のとある櫻のところで、県内に住む写真愛好家のSさんに声をかけられた。櫻の談義をしている中で私がチョウジザクラを探していることを何気なく話すと、彼はその巨木を知っているという。そして、冒頭の会話となったのであった。
    私は、すぐにでもその櫻に会いたいと申し出ると、彼は快く案内してくれた。出会いの場所から車で30~40分ほどのであったろうか。巨木のオクチョウジザクラは、道路から見えるところに立っていた。いや、こんもりと花笠を広げていたと言った方が性格かも知れない。一般的な櫻とは違い、オクチョウジザクラは中心的な太い幹はなく、低木のように何本もの枝が地面を這うように伸びているのである。そのためか、道路から見える状況にあるのに、花見に訪れる人はほとんどいない。だが、直径10メートルほどに達するこの櫻は紛れもなく巨木であり、相当の樹齢に達していると思われた。
    私は深い感動に包まれ、夢中で撮り続けた。途中でSさんは弁当を調達してくれたのだが、オクチョウジザクラを愛でながらいただいた昼食は、至福の時間であった。

    「感動喪失病」との闘い

    更新:2013年04月03日

     「私が現在、写真家として一番難しいことと受け止め、一番重要なこととして取り組んでいること、それは技術的な問題ではありません。では何かというと、被写体と向き合ったときに“心が感動で震えているか”ということです。マンネリ化と戦い、感動喪失病にならずに、いつも“感動してシャッターをきれるか”という課題に力を注いでいます」

     『櫻乃物語』の期間中に4回のギャラリートークが開催されたが、4回目の最後の締めくくりに、私はそのようなことを話した。話をしながら、脳裏には7~8年前のある出来事が浮かんでいた。それは、ある写真雑誌編集者と裏磐梯でロケをしたときのことであった。そのときは、湖の朝景色を撮影していた。きれいな朝焼けにはならなかったが、光の変化もあったので私はフィルムで170カットほど撮影したのだった。手を休めて編集者と「赤くは焼けなかったけどなかなか良かったね」と話していると、二人のベテランらしき写真愛好家が寄って来られ、「今朝はダメでしたね。私たちは一枚もシャッターを切りませんでした」と自慢気に話された。おそらくその言葉に隠された真意は、「私たちはこれまでたくさんの朝焼けを撮ってきました。今朝の状況では、作品にしたとしてもそれほどの力作にならないと見抜きました。それで無駄なシャッターをきりませんでした」ということだろう。しかし私は、「そうですか。でも私は、5本ほど撮りました。どんなときでも感動してシャッターを切るようにしないと、だんだん写真が撮れなくなってしまうじゃないですか」と返答した。二人は、少々ばつの悪い顔をして立ち去った。この一件を思い出しながら、“感動喪失病”との闘いのことを話したのだった。

     ギャラリートークの参加者の方々が、はたしてどのような受け止め方をされたかは、分からない。だが、私自身が本当に嬉しくなったことが、ひとつ起きた。それは、帰り際にギャラリーの社員の一人から私にかけられた言葉だった。
    『私、今日のお話を聞いて、とても感激しました。私は毎日の仕事を、一日の生活を、あまり感動することなく平々凡々とやり過ごしてきたように思います。でも、それではダメなんですね。もっと感動して向き合わないと、変わらないんだと分かりました』
     私は、驚いた。写真愛好家の参加者にお話しした“撮影における心のあり方”を、社員の方が「生き方」の問題として受け止め、そして感動されたことに、その反応の大きさに驚いた。次の日から、その方の表情に、変化が生まれた。今までよりも明るく、輝いているのだ。心の中で眠っていた何かに灯が点ったように、私には感じ取れた。

     おかげで私も、“感動喪失病に負けないようにしなくては”との思いを新たにし、気持ちを引き締めることができた。

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