裏磐梯(福島県)のペンション・サッチモで夕食を終える頃、季節外れの雪はいよいよ本降りとなってきた。今日は4月20日、福島市や郡山市の満開の櫻を満喫してきたところである。暗闇を背景に、窓際を幻想的に流れる雪を見つめていると、私の胸のざわつきはいよいよ大きくなっていった。そういえば、9年前の4月末の時も、まさに同じ光景であった。そのときに撮影した猪苗代町での櫻と降雪の作品が、写真集『櫻乃聲』の大切な作品として収められている。今回もまた、貴重なシャッターチャンスを迎えようとしているのではないか、その期待が次第に高まっていった。
翌朝、夜明け前に起きると、雪はまだ降り続いていた。驚くことに、すでに15㎝以上も積もっているではないか。私の心臓は、一瞬にして激しい鼓動へ転換した。愛車の雪を払い、急いでエンジンをかける。同時に、頭の中ではどこの櫻に向かうべきかを滅多にない思考のスピードで検討し始めた。猪苗代や喜多方、福島などの桜も脳裏をよぎったが、最終的に三春町と郡山市に行くことを決めた。これほどの大雪では風景全体が雪景色と化し、桜の光景とは思えない映像になってしまう。あくまでも櫻満開の季節感と貴重なシャッターチャンスであることを訴えるには、櫻の色がピンクであることが望ましい。そう分析し、紅枝垂れ系の櫻が何本もある地域を選んだのだった。
幸いにも、愛車はスタッドレスタイヤを装着していた(いざというときに備え、毎年、櫻旅が終了するまでは冬タイヤにしている)。すでに世の中は、大混乱に陥っていた。カーナビの情報では、東北自動車道の一部が事故のために通行止めとなっていた。二時間ほどで三春町に入ると、最初に“滝桜”に向かった。日本一の人気を誇る滝桜は、吹雪の中で淡い桃色を雪に滲ませながら幻想的に佇んでいた。この三春町でも雪は既に10㎝以上も積もっていたが、5~6人が傘を差しながら櫻を眺めていた。まだ朝の8時前だが、通常ならばすでにたくさんの人が花見をしているところだ。私はフィルムカメラとデジタルカメラの両方で、何かにとりつかれたようにシャッターをきり続けた。あきらかに通常のスピードではなく、ギヤが違う。わずか10分ほどで撮影を終えると、次は近くの“紅枝垂れ地蔵桜”(郡山市)に向かった。
降雪は激しく、本格的な吹雪である。濃いピンク色の花びらとの饗宴に、私は益々酔いしれた。ここでは、一時間以上もかけて心ゆくまで描き続けた。やがて合流した地元の写真愛好家Kさんの話では、自宅からここまで来る間に何台もの車が事故を引き起こしていたという。タイヤの問題だけではなく、心の動揺も大きく影響しているのではないか。かくいう私も、裏磐梯を出発した直後に、スリップして雪に覆われた土手にぶつかるというアクシデントに見舞われていた。幸いにも愛車には傷ひとつ着かなかったが、そのことでここまで慎重に運転して来れたように思う。
“紅枝垂れ地蔵桜”の後は、やはりピンクの花を纏った“忠七桜”(郡山市)を訪れた。雪はいつのまにか止んでおり、音も風もない静かな銀世界の中で、桜は妖艶なる雪化粧の姿を披露していた。これも、感無量であった。ひと枝の部分を描いた作品が、「作品館」の「桜-Ⅱ」に展示してある“雪衣”である。
この後に、裏磐梯から駆けつけてきたペンション・サッチモの染谷夫妻と合流し、“五斗蒔田の桜”(郡山市)へと駆けつけた。この桜は昨日も撮影していたのだが、一日違いで全く別世界の桜を描き続けていることに、不思議な感覚を覚えた。“昨日は桜の下に子供を抱いた若いお父さんが居たなぁ”などと想いながら、シャッターをきり続けるのだった。
時は既に、午後二時に迫っていた。ここでの撮影で区切りを付け、私は東京に戻ることにした。何しろ、明日は某写真雑誌の月例フォトコンテストの審査日なのだ。降雪が一日ずれていたら、この出会いは無かった。五カ所の桜を描くことができたことに、私は感無量であった。遅いお昼を染谷夫妻と食べながら、「鈴木さん、裏磐梯では30㎝近い積雪になっているよ。30年近く居るけれど、こんな事は初めてだよ」と聞かされた。“私は、三十年に一度の光景に遭遇できたのではないか”と奇跡的な出会いの大きさをしみじみかみしめながら、今回もまた櫻の神様に導かれたのだと、深く感謝した。
独り言 -時々のつぶやき-
“2013櫻旅” -その②
更新:2013年08月13日
2013櫻旅”-その①
更新:2013年08月12日
「もしよろしかったら、オクチョウジザクラにご案内しますよ」という思いがけない言葉に、私のテンションは一気に高まった。「本当ですか。是非、お願いします」と、こみ上げる嬉しさを噛みしめながら返事をした。
毎年続けている私の櫻旅は、一ヶ月から1ヶ月半に及ぶ。それは、私にとって一年でもっともしあわせな時間であり、大切な充電期間でもある。細かなスケジュールは定めずに出発するのだが、“今年はこの桜を撮りたいなぁ”という願いが、事前にいくつか生まれるのだった。そして今年の願いのひとつに、“チョウジザクラ”があった。
ソメイヨシノに代表されるおおよそ600種の園芸種に対し、古来より日本に存在する自生種はわずか10種にすぎない。その貴重な桜のひとつが“チョウジザクラ”なのである。この桜は、「花の部分を近くで横から見ると“丁字”のように見える」という特徴が名前の由来になっている。だが、昔から鑑賞価値が低いとされてきたこともあって情報が少なく、なかなか満足できる個体に出会うことがなかった。今年は、長野県でその念願が叶うことを期待していた。安曇野に住み、山岳ガイドをしている友人が、以前からチョウジザクラの群生地を案内してくれる、と言ってくれていたからであった。だが実際には、樹齢の若い十本ほどの木立が少しの花をまとっている状況であった。私はオクチョウジザクラに出会えただけで満足し、櫻旅を続けたのであった。
長野県から福島県、そして山形県へと櫻行脚を続けていったが、山形県のとある櫻のところで、県内に住む写真愛好家のSさんに声をかけられた。櫻の談義をしている中で私がチョウジザクラを探していることを何気なく話すと、彼はその巨木を知っているという。そして、冒頭の会話となったのであった。
私は、すぐにでもその櫻に会いたいと申し出ると、彼は快く案内してくれた。出会いの場所から車で30~40分ほどのであったろうか。巨木のオクチョウジザクラは、道路から見えるところに立っていた。いや、こんもりと花笠を広げていたと言った方が性格かも知れない。一般的な櫻とは違い、オクチョウジザクラは中心的な太い幹はなく、低木のように何本もの枝が地面を這うように伸びているのである。そのためか、道路から見える状況にあるのに、花見に訪れる人はほとんどいない。だが、直径10メートルほどに達するこの櫻は紛れもなく巨木であり、相当の樹齢に達していると思われた。
私は深い感動に包まれ、夢中で撮り続けた。途中でSさんは弁当を調達してくれたのだが、オクチョウジザクラを愛でながらいただいた昼食は、至福の時間であった。
「感動喪失病」との闘い
更新:2013年04月03日
「私が現在、写真家として一番難しいことと受け止め、一番重要なこととして取り組んでいること、それは技術的な問題ではありません。では何かというと、被写体と向き合ったときに“心が感動で震えているか”ということです。マンネリ化と戦い、感動喪失病にならずに、いつも“感動してシャッターをきれるか”という課題に力を注いでいます」
『櫻乃物語』の期間中に4回のギャラリートークが開催されたが、4回目の最後の締めくくりに、私はそのようなことを話した。話をしながら、脳裏には7~8年前のある出来事が浮かんでいた。それは、ある写真雑誌編集者と裏磐梯でロケをしたときのことであった。そのときは、湖の朝景色を撮影していた。きれいな朝焼けにはならなかったが、光の変化もあったので私はフィルムで170カットほど撮影したのだった。手を休めて編集者と「赤くは焼けなかったけどなかなか良かったね」と話していると、二人のベテランらしき写真愛好家が寄って来られ、「今朝はダメでしたね。私たちは一枚もシャッターを切りませんでした」と自慢気に話された。おそらくその言葉に隠された真意は、「私たちはこれまでたくさんの朝焼けを撮ってきました。今朝の状況では、作品にしたとしてもそれほどの力作にならないと見抜きました。それで無駄なシャッターをきりませんでした」ということだろう。しかし私は、「そうですか。でも私は、5本ほど撮りました。どんなときでも感動してシャッターを切るようにしないと、だんだん写真が撮れなくなってしまうじゃないですか」と返答した。二人は、少々ばつの悪い顔をして立ち去った。この一件を思い出しながら、“感動喪失病”との闘いのことを話したのだった。
ギャラリートークの参加者の方々が、はたしてどのような受け止め方をされたかは、分からない。だが、私自身が本当に嬉しくなったことが、ひとつ起きた。それは、帰り際にギャラリーの社員の一人から私にかけられた言葉だった。
『私、今日のお話を聞いて、とても感激しました。私は毎日の仕事を、一日の生活を、あまり感動することなく平々凡々とやり過ごしてきたように思います。でも、それではダメなんですね。もっと感動して向き合わないと、変わらないんだと分かりました』
私は、驚いた。写真愛好家の参加者にお話しした“撮影における心のあり方”を、社員の方が「生き方」の問題として受け止め、そして感動されたことに、その反応の大きさに驚いた。次の日から、その方の表情に、変化が生まれた。今までよりも明るく、輝いているのだ。心の中で眠っていた何かに灯が点ったように、私には感じ取れた。
おかげで私も、“感動喪失病に負けないようにしなくては”との思いを新たにし、気持ちを引き締めることができた。
“自由自在”に描こう
更新:2013年04月02日
『櫻乃物語』という私の写真展が、“ペンタックスフォーラム”(新宿)で3月14日から25日にかけて開催された(現在は、「富士フォトギャラリー新潟」で開催中。詳細は“お知らせ”の中に)。今回の写真展は、“人と桜との関わり”という視点に重点を置いて構成したものだった。期間中にたくさんの方々に来ていただいたが、今でも耳元に張り付いているやりとりがふたつある。
ひとつは、以前に何度も私の写真教室に参加されていたAさん(女性)との会話である。
「先生、画面にこんなに人を入れて撮ってもいいんですね?」
「もちろんです。桜を主役にしたまま添景人物として入れてもいいし、人を主役にして桜を脇役にした撮り方だっていいんです。撮りたいように撮りましょう。どの作品をどう使うかは、後から考えることです」
「うわぁー、嬉しい! これで楽になりました。」
Aさんは、本当は人を入れた写真がずっと撮りたかったのだろう。だが、所属している写真クラブではそれが認められなかったのだろうか、それともAさんがそう思い込んでいたのだろうか。
もうひとつのやりとりは、初めてお会いする人達との会話であった。男性四人で来場された一行が、ひととおり作品を鑑賞し終えてから、会場にいた私に話しかけてきた。
「鈴木先生、桜は、支柱があっても撮っていいんですね?」
「もちろんです。そうでなかったら、支柱のある桜は一切撮れないじゃないですか。ある程度樹齢のいった桜はほとんど支柱があるじゃないですか」
「そうですか。うちの会の指導者から、支柱がある桜は撮ってはダメと言われているものですから…」
「人間だって、年を重ねれば杖をつくでしょ。杖をついているからその人を撮らないということはないでしょう。桜だって同じです」
「そうですね。これで気が楽になりました」
これらの二つの事例を通して、写真愛好家のたくさんの人が、「○○を撮ってはいけない」という呪縛に縛られていることをあらためて痛感した。でも、もう一度初心に戻ろうではないか。私たちは撮りたいものを、心を躍らせて撮り始めたのではなかったか。最初の頃のように、もっと自由自在に描こうではないか。もっと、のびのびと楽しもうではないか。
“難産”の喜び
更新:2013年04月01日
「―見たい撮りたい―日本の桜200選」という私の本が、2月末に出版された。これまでの著書の中で、もっとも難産であった。昨年7月から2月上旬の印刷前日まで、この本にずっと手間暇をかけて関わってきたように思う。もちろん、その他の色々な仕事も重なったこともあるが、その間に仕事を離れて休むことができたのは、二日間だけであった。
この本の大きな特徴の一つには、大相撲のように各都道府県を横綱から十両まで番付をしていることが挙げられる。これが、実にたいへんな作業であった。私の独断と偏見で番付を行うならば一日もあれば可能だが、写真愛好家にとどまらず全国のいろいろな方々が手にすることを考えると、いい加減なことはできない。そこで、①各都道府県にある「一本桜」や「公園や山などの群生」をできる限り調査し、②それぞれに点数評価を行い(“樹齢または本数”“形状”“景観”などの項目)、③都道府県別総合点数を出し、④総合点数の上位から横綱・大関・関脇・小結・前頭・十両という番付をつけた、のであった。この作業に、三人がかりで三ヶ月という時間を費やした。
その後も、都道府県別に紹介する桜の選定やそれぞれの桜の評価(“桜の魅力”“環境の魅力”“撮影自由度”などについて五段階評価)、桜の見所紹介、地図等の情報作成、などの作業が次から次へと待ち受けていた。とりわけ、地図の作成は困難を窮め、本の印刷前日までチェックに追われることとなった。使用する作品の撮影は別として、本作りに費やした時間と労力は、写真集10冊分以上になるのではなかろうか。
そのような難産であったため、今は、とても満ち足りた気持ちになっている。ムック本ゆえに写真集のような印刷の出来映えとはならなかったが、今でも一日一回は手にとって眺めたくなるとても大事な我が子になっている。
“今”を生きる
更新:2013年03月31日
「親友でもあり、写真の相棒でもあったTさんを亡くしました。ショックでカメラを握っていません」という悲しいことばが、Mさん(女性)からの今年の年賀状に、弱々しい筆跡で書かれていた。MさんとTさんは大学時代からの親友で、趣味としての写真も一緒にされてきたらしい。二人は昨年の春に久しぶりに私の撮影会に参加され、5月には私のフォト寺子屋『一の会』に見学に来られていたのだった。その後に連絡が無く、私は入会を断念されたのだと思っていた。
電話をかけて事情を聞くと、私の会に見学に来られた直後にTさんのガンが発見され、11月にはあっという間に他界してしまわれたという。私は少ない励ましの言葉をかけた。Mさんは、ほどなくして開催された私の新春写真セミナーに顔を出された。私はMさんに、“私たちはいつどうなるかわからない”“今という時間を精一杯生きることが大切”“Tさんは、Mさんが自分の分まで写真を楽しんでくれることを天国から望んでいる”というようなことを話した。嬉しいことに、Mさんはその後前向きに写真を続ける気持ちを持たれ、私の会に入会された。
時々、若い頃に読んだミンコフスキーの『生きられる時間』という本のことが思い出される。かなり難解な内容ではあったが、“今という時間を、自分の信念で精一杯生きる”という思いを強めた印象が残っている。最近、「いつやるか?、今でしょ!」というキャッチフレーズが流行しているけれども、それも東日本大震災という大きな痛手を日本人が受けたことがひとつの要因になっているのではなかろうか。
肩の力を抜きながらも、“今”という時間を精一杯生きることが、何よりも大切なことのように思われる。
“自慢史”と“自分史”を作ろう
更新:2012年11月25日
私たちが人生を終えた場合、残された作品はどうなるだろう。前項の『作品の行方、想いの行方』で綴ったように、引き継いだ遺族と取り巻く環境によっていろいろな運命をたどることになろう。だが、恵まれた運命は少ないと考えた方が間違いない。乱暴に論じるならば、「ポジは燃えないゴミ、データは消滅」である。
ポジの場合、ライトビュアーとルーペを使って作品を鑑賞するなどは、本人以外は考えられない光景となろう。データについては、大量に氾濫する情報の中で埋もれてしまうか、やがてはデータそのものが閲覧できなくなる(機器の互換性やデータの保存性の問題)だろう。
それゆえに、本人自らが生存している間に大切な作品を最大限に活用しておくことが重要になってくる。それは、大きく分けて二つの手法があげられる。第一は、写真展や作品集などにまとめ、お披露目することだ。お披露目自体も、家族や写友、あるいは不特定多数の人々まで、多岐にわたる。それらはすべて、“自慢史”という活用の仕方である。鼻高々にお披露目する人もいれば、恥ずかしげにそっとお披露目する人もいるだろう。お披露目の有り様も心の有り様も人それぞれだが、すべて“自慢史”である。
第二は、作品、そして自分の想いや自分の年譜、家族の資料などの原稿などを準備しておき、いざこの世にお別れした後には直ちに製作が始められるようにしておく。そしてできあがった冊子を自分自身の一周忌法要の引き出物にする、という活かし方である。私はこれを、“自分史”と位置づけている。写真を趣味にしている人は写真作品を活かした自分史を準備し、俳句や絵画や書、その他の趣味がある人はそれらを活かした自分史を準備しよう。
その自慢史と自分史のつづり方については、12月9日(日)のセミナー(詳しくは「お知らせ」の中で紹介済み)で詳しくお話しする予定でいる。写真愛好家のみなさんには是非とも聞いて頂き、今後の写真人生に活かしていただきたいと切に願う。
作品の行方、想いの行方
更新:2012年11月11日
私は、風景写真愛好家との付き合いが多い。だがそれらの方々は、ほとんどが高齢者だ。それゆえに、永遠にお別れする事態が毎年のように生じる。そして時折、関係が深かった方々のご遺族から、残された作品の扱いについて相談を受けることがある。それについて、今でも忘れがたいふたつの事例がある。
ひとつは、私のフォト寺子屋「一の会」の会員だったKさんである。85歳で亡くなられたKさんは、寿命を全うして他界された。半世紀以上にわたって撮り続けてきた作品数は膨大であったが、残念ながら、私が提唱してきた「自分史」の原稿は残されていなかった。アメリカに在住されているお孫さん(彼女は、一年前の尾瀬撮影会にKさんのお供をされた)も駆けつけ、一週間がかりでポジ作品を整理された。
その後に奥様から、本人が歓ぶことを何かしてあげたいがどうしたらよいか、という相談をもちかけられた。私は、ご家族のみなさんの寄せ書きや家族写真なども入れた作品集を作り、一周忌の引き出物にされてはどうか、と勧めた。奥様も賛同され、各自の原稿に取り組んでくれた。私は板見浩史さんの協力を得て、二人がかりで作品の選定と製作に取り組んだ。やがてできあがった作品集は、Kさんの一周忌法要の引き出物となった。身内からも参列者からも、故人を偲ぶ大切なものとして本当に歓ばれたようである。
二つ目の事例は、二十年以上もお付き合いが続いたTさんの話である。過去に写真展を開催されたこともあるベテランのTさんは、新たなるテーマの集大成と発表に向けて熱心に取り組んでいた。だが、病魔によって志半ばでこの世を去ってしまった。奥様が遺品を紐解いていると、まとめられた作品と写真展を開催するための資金、そして私の手紙(次なる発表について作品選定をお願いしたいというTさんから依頼に対し、了解しましたという私の返事)がひとつの箱に大切に保管されて出てきたという。奥様から、追悼の写真展をやってあげたいが面倒を見て頂けないか、と相談された。私は、「喜んでお手伝いします。ただ、写真展もいいですが、故人を偲ぶ作品集を一周忌の引き出物にするのもいいですよ」と返事した。それでは検討しますということだったが、なかなか返事はこなかった。
やがて一年ほど過ぎた頃に、その奥様から電話がかかってきた。消え入りそうな声で話された内容に、私は愕然とした。それは、息子さん夫妻(特にお嫁さんの意見で)から財産分与の裁判を起こされ、Tさんが残していた写真展資金も使えなくなってしまった、というのであった。私は慰める言葉もなく、もし事態が進展して何かお手伝いすることができたらいつでも申しつけて欲しい旨のことを話し、電話をきった。だが、その後の連絡は途絶えたままである。
高齢者が取り組む風景写真においては、一般的な趣味の範疇を超え、生き甲斐として、命をかけて真剣に取り組む人がかなりいる。だが、他界された後の作品の行方とそれを天から見届ける本人の想いの行方は、さまざまである。
生前に自ら葬儀の手配
更新:2012年10月05日
流通ジャーナリストの金子哲雄さんが41歳という若さで亡くなり、昨日からテレビでいろいろと話題になっている。私は彼のことはあまり知らなかったが、分かりやすく人なつこい語り口で人気が高かったらしい。
十万人に一人という難病によって若くして他界されたことは、何とも気の毒である。だが、私がこのニュースに敏感に反応したのは、①自分の病気や残された時間のことを周囲に悟られることなく、直前まで一生懸命仕事をされていたこと、②自らの葬儀をすべて段取りして礼状まで作成していたこと、が伝えられたからであった。
私もこれまで、「写真による自分史つづり」という活動を展開してきた。自分自身が確かにこの世に生きていた証と自分がどのような人間であったかを写真作品と文章でつづり、「自分史」として後生に残そうではないか。そして自分史は“一周忌の引き出物”という位置づけにして、原稿を作り上げて予算の裏付けをきちんとしておく、というのが写真愛好家への私の提案なのだ。
若い金子さんが、悟りを開いたように取り乱すことなく、残された時間を必死で生き、すばらしい葬儀を自ら成し得たことに驚嘆させられる。誰にもできることではなく、心より敬意を表したい。合掌。
※“自分史つづり”の講演については、“お知らせ”をご覧下さい。
ダリアの花
更新:2012年09月29日
生まれ故郷から持ち帰ったダリアの花を花瓶に活け、仏壇の脇にそっと置いたとき、写真の中の母がにこっと微笑んだように思えた。
私の生まれ故郷は、福島県の塙町という田舎だ。地図的には、茨城県に近い中央通りの山村である。町は、15年ほど前からダリアの花による町おこしを始め、今では老人会から各家庭までダリアの花作りに熱心に取り組んでいる。毎年ダリアフォトコンテストも開催され、長年にわたって私も審査に関わってきた。
メキシコが原産国であるダリアは、とても情熱的な花だ。原色の絵の具を塗りつけたような鮮やかな色彩で、大小様々な姿で太陽に向かって伸びている。見ているだけでも元気がもらえるようなチカラがある。
町から講師を依頼されたダリアの写真教室が、9月28日に実施された。町外・県外の参加者が30名近く集まり、午前はセミナーで午後はダリア園での撮影会という濃密な時間が、静かな山の中で流れた。時折雨が降る天気ゆえに一般の観光客はほとんどおらず、花には美しい水滴がまとうという恵まれた撮影条件だった。写真教室が終わって誰もいなくなった後、暫し花を見つめていると、これまで一度も東京の自宅にダリアを飾っていないことに気がついた。花が大好きだった母が、少々おかんむりであるのは間違いないだろう。園を管理しているおじさんに頼み、私はダリアの花とともに帰路に着いた。