私たちが人生を終えた場合、残された作品はどうなるだろう。前項の『作品の行方、想いの行方』で綴ったように、引き継いだ遺族と取り巻く環境によっていろいろな運命をたどることになろう。だが、恵まれた運命は少ないと考えた方が間違いない。乱暴に論じるならば、「ポジは燃えないゴミ、データは消滅」である。
ポジの場合、ライトビュアーとルーペを使って作品を鑑賞するなどは、本人以外は考えられない光景となろう。データについては、大量に氾濫する情報の中で埋もれてしまうか、やがてはデータそのものが閲覧できなくなる(機器の互換性やデータの保存性の問題)だろう。
それゆえに、本人自らが生存している間に大切な作品を最大限に活用しておくことが重要になってくる。それは、大きく分けて二つの手法があげられる。第一は、写真展や作品集などにまとめ、お披露目することだ。お披露目自体も、家族や写友、あるいは不特定多数の人々まで、多岐にわたる。それらはすべて、“自慢史”という活用の仕方である。鼻高々にお披露目する人もいれば、恥ずかしげにそっとお披露目する人もいるだろう。お披露目の有り様も心の有り様も人それぞれだが、すべて“自慢史”である。
第二は、作品、そして自分の想いや自分の年譜、家族の資料などの原稿などを準備しておき、いざこの世にお別れした後には直ちに製作が始められるようにしておく。そしてできあがった冊子を自分自身の一周忌法要の引き出物にする、という活かし方である。私はこれを、“自分史”と位置づけている。写真を趣味にしている人は写真作品を活かした自分史を準備し、俳句や絵画や書、その他の趣味がある人はそれらを活かした自分史を準備しよう。
その自慢史と自分史のつづり方については、12月9日(日)のセミナー(詳しくは「お知らせ」の中で紹介済み)で詳しくお話しする予定でいる。写真愛好家のみなさんには是非とも聞いて頂き、今後の写真人生に活かしていただきたいと切に願う。